寸又峡に至る静岡の県道77号(K77)の朝日トンネル手前で入る、大井川ダム近くを通り、長島ダムに向かう町道はスリリングであった。
この町道は直後から樹間の間を走るのだが、路肩はいうにおよばず路面中央部にも落葉がうずたかく堆積し、小さな落石も転がっている1車線幅の狭路で気が抜けない。ほとんど通行量のないことを表しているが、実際、一台のクルマとも遭遇しなかった。むろん速度もだせない。
法面の樹木の枝が道路に垂れ下がり3分の1ほどをふさいでいる。無理に通り抜ければ、塗装に傷がつく。降車。せり出している枝を手で押さえてもらっている間に通行した。
次はフロア下からカタカタという音がしてきた。停車。フロア下をのぞき込む。そこには50㌢程度のスギの枝が、フロアを貫通するマフラーパイプを吊す中央フックにひっかかっている。これが路面とこすれる反動で跳ね返りフロアをノックしていたのだ。音源除去。
今度は前輪からキーッ、キーッという異音発生。左前輪からでている。ミッションのDレンジでもNレンジでも音は消えない。
人里離れた山道で重要保安部品のトラブルだけに緊張する。ディスクローターとブレーキパッドの間に、石か木片かが、入り込んでしまい車輪が回転するたびに旋盤のバイト(刃先)のようにローターを削っているのが、原因だろう。
とにもかくにもできるだけ低速走行し、道路の広い場所があったら、そこでタイヤを外して状況をみようということにした。
異音のでるまま10分以上走った。ローターがどれだけ持ちこたえられるのか、不安である。やっと大井川鉄道井川線ひらんだ駅近くでK388に合流する地点までクルマを運んだ。
タイヤを外そうと、ジャッキを取り出そうとリアラゲッジ床板をはぐったが、ない。
「うっ!」
スペアタイアレス仕様で、パンク修理剤があるだけ。
同タイヤを積載していないので、タイヤ交換の必要がなく、ジャッキも載せていないのである。
しかし、床板にはスペアタイヤを搭載できるようプレスされた部分がある。輸出国によっては緊急走行タイヤなどを積んでいることを示している。
しかし、日本向けにそういう配慮はない。販売コストを下げるためとしかいいようがない。
タイヤ脱着断念。
このままGSを見つけるまで走るほかなく、再びヨロヨロと走り出した。
と、そのうちに無音となった。異常音が消えた! どうやら挟み込まれた物体が、ローターとの摩擦で消滅してしまったのだろう。速度を上げてもブレーキはきちんと作動し、トラブル解消である。
「よかった。それにしてもジャッキぐらい標準で搭載して欲しい、VWジャパンさん」。
ひとつだけ、この町道で絶景といっていい風景を見ることのできる場所がある。井川線アプトいちしろ駅近くの切り立った深い渓谷で大きく蛇行して流れる大井川に同線のコンクリート製らしい橋が渡っているのを数百㍍の眼上から望められることである。
再三にわたり発生した車両トラブルにだいぶ字数を費やしてしまった。先を急ごう。
今回のドライブは新東名島田金谷ICからスタートしている。同ICからR473にでて、寸又峡をまず目指した。国道とはいってもR473はいきなり山道ふうになっているのに直面し、いささか面食らう。
家山で大井川を挟んでR473の対岸を走るK63に入り、笹間川ダムからK77へと進路変更。K77の一部では1車線の林道然とした趣となる。落葉が道路を覆い、おまけに水たまりまである。無名の橋の欄干代わりの設置されたガードレールに貼られたK77と表示されたステッカーをみて、道を間違っていなかったとわかったぐらいの峡路がある。
川根町からの大井川沿いは茶畑が多い。道路両脇からの緑の段々茶畑に霜が降りている。駐車しているクルマのフロントスクリーンは真っ白だ。気温は零下0・5度。日本茶には詳しくないが、川根茶はブランド品らしい。
道路沿いに同線の下泉駅があるのをみつけた。小さな小さな木造無人駅舎である。学生服を着た男子中学生が駅めがけて小走りで走ってきた。午前6時29分発の金谷行に乗車するためだが、日曜日の早朝、彼はいったいどこに何をしにでかけたのだろうか・・・
K77はR362と供用する手前の崎平あたりがまた狭路で、竹林のなかを進むところがある。なかなか雰囲気はいいのだが、二本ばかり竹が折れて道路に倒れかかっていた。くぐりぬけていく。
寸又峡は第三駐車場が事実上一般車の入れる限界でK77の終点である。飛龍橋など観光スポットにいくには徒歩となるが、往復1時間を要するとあってパスする。駐車場には昭和43年まで運行していた千頭森林鉄道で気動車と客車が展示されている。気温はマイナス1度と新東名御殿場付近と同温度であった。
温泉街の朝は早い。午前8時前だが、宿泊客であろう、もう次に移動すべく、バス停には人波がみられた。
寸又峡といえばある年代以上のひとは、昭和43年(1968年)におきた金嬉老事件をすぐさま思い出すのではないだろうか。寸又峡に温泉街ができたのは1962年。同事件が起きるまでは一地方の秘湯に過ぎなかったのだが、同事件が大々的に報道された結果、一躍全国に知られる契機となった。
金嬉老は強制送還された韓国で2010年に死去。また、金嬉老が立て籠もった旅館も昨年閉館。知る世代も高齢化している現在、同事件は次第に風化していくのだろう。
さて寸又峡からはK77を戻り、車両トラブルに見舞われた町道を抜けてK388から道なりでK60終点の畑薙ダム(第一)へとクルマを進めていく。K388から井川湖上にある奥大井湖上駅を眼下にチラッと望むフォトポイントがあるのだが、道路際の樹木が邪魔をしてベストアングルを確保できなかった。
初冬とあって山は冬枯れし、行き止まりの県道と相まって訪れる観光客は少ない。走り放題ですれ違いには問題ないワインディングロードを少し速度を上げて駆け抜ける。
公共交通機関がなく、クルマがないと行けない4年前にリニューアルした真新しい市営温泉宿である。K60をはさんだ宿正面駐車場は一日中日陰らしく、昼を過ぎているにもかかわらず、厚く降りた霜が溶けないまま地面を覆っていた。
正面駐車場はスケートリンクになる、と宿従業員は話していた。わざわざここまで滑りにくるひとはまずいそうにないから前夜に水を撒けば翌朝には湯治客対象の簡易リンクが誕生するのかもしれない。
宿から望む茶臼岳(2604㍍)は冠雪し、山には確実に今年も冬が訪れていることを示していた。
畑薙第一ダムは中空重力コンクリ式で昭和36年(1962年)竣工。堰高125㍍は日本一の高さ。下流の井川ダムの完成が昭和32年なので、発電用水資源を求めて大井川をさかのぼっていったことがわかる。
「もはや戦後ではない」。
経済白書がこう唱いあげたのが昭和31年である。
戦災からの復興期が終わり、高度成長に向けて、この国が邁進していく境目にあたる。
高度成長を牽引したのは当初、鉄鋼、化学などの重化学産業である。急増する電力需要をまかなうために中部電力が建設したのが、畑薙第一、第二ダムということになる。
堰堤の上が道路になっている同第一ダムから先、5分も走れば、終点が待ち受ける。南アルプス登山指導センターで黄、黒のストライプ柄の鉄道で見かけるバー型遮断機が降り、一般車両の通行を規制する。遮断機を操作するための番人が昼間は常駐しているようで、完全シャットアウトである。
この先にも林道は続いているものの「クマに注意」の看板に脅かされながらの登山者のみの通行ゾーンだ。
クルマを転回させ戻るが、終点で今ではレアとなった三代目カローラ(1974~79製造)、FRのハードトップSL(白)をみかけた。ツインカムのレビンあるいはトレノでも珍しいのに、SLとあっては真希少物件。高齢をおして元気に走っていた。
井川湖で井川大橋という吊り橋を見つけ、渡河してみることにした。2㌧以下なら通行可能な木製床盤1車線幅で、橋に乗り入れると、フラフラ揺れる気がする。地元の軽自動車が渡ってきた。
軽とPOLOで総重量2㌧近くになるはず。
「おい、おい、やめて欲しい」とつぶやかざるを得なかったが、2台とも支障なく渡河でき事なきを得る。
井川ダムから大日峠を経由してK27に。狭い道で口坂本、油野・・・油島で左折しK29を北上。油野では道沿いの紅葉している見事な大銀杏を発見し小休憩。
K29は梅ヶ島街道とも呼ばれ、梅ヶ島に温泉がある。午後2時を回っており、泊まり客のクルマがどんどん降りてくる。広いとはいえない道路幅。ピッチをあげずらい。温泉手前で梅ヶ島林道への道が分岐しており、これを通って山梨の県道K808にでようと走らせる。
しかし、この林道では「山梨県側には抜けられない」旨表示された看板を見落とした。対向車などまずこないクネクネ林道を快調に走っていたが、もう少しで安倍峠というところで頑丈な鉄のゲートに進行を阻まれた。
事後調査で山梨側に法面崩壊などの恐れのある箇所があり、静岡側しか現在、通行できないのであった。冬季閉鎖される林道で、静岡側ゲートはそれを利用して車両通行を遮断しているのであった。ゲート脇がわずかに空いており、登山者は峠にいける。
「しょうがない、戻るか」
K29をどんどん南下していき、K27に合流、新東名新静岡ICに向かうことにした。
新東名では宝永年間の爆発で、コブのように盛り上がった山肌をみせる夕陽に染まった冠雪富士山を仰ぎ見ながら一路東京を目指した。
■全行程(GPS):約682km/最高高度(GPS):約1,450m
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